2012年2月14日火曜日

習近平氏の人となりにアメリカも気になるようです。

日本の総理大臣はこんなに特集されることは無いが、中国となると特集されるようです。

記事によると
  • 革命エリートの子どもたちが1950~60年代に比較的裕福な生活を送っていた
    • 習一家は党の最高レベルの階級に属していた
    • 北京の庭付き邸宅に暮らし、子守や料理人を抱え、ソ連製の自動車を乗り回していた
    • 子どもたちはエリート学校に通い、外国の本や映画にも親しむことができた
    • 1958~61年の「大躍進政策」(大失敗に終わった農工業大増産計画)時代の飢饉で数百万人の命が奪われたときでさえ、食料に困ることはなかった
    • 「彼らは中国の次期リーダーになると教えられていた」
  • 15歳だった習氏は他の数百万の学生とともに辺境の梁家河村に下放させられ、その後7年間過す
    • 革命の英雄だった父・習仲勲氏が毛沢東に批判的とみなされた本の出版を支持した為、毛沢東によって追放、投獄された
    • この村で溝を掘り、豚糞からメタンガスを抽出する生活
    • 若い習氏の人格形成に大きな影響を与えたのは父親 (友人談)
      • 党の陰謀に関する内情や任務と特権の意義を教える
      • 政治的エリートらとのつながりを持たせた
      • そのエリートの多くは今日、民生・軍事部門のトップの座にいる
    • 農村での生活が習氏の転換点となり、政治的野心の根源になった (友人談)
    • 「酒を飲んだりゲームをしたり、女の子を追いかけたりして楽しく過ごそうと決めた人間が大勢いた。その一方で、親に頼れないなら自分でどうにかするしかないと考え、リーダーシップの基本を学ぼうと努力した人間がわずかながらいた」 (友人談)
  • 1966年に文化大革命が始まると、学校は閉鎖され、学生たちは毛沢東率いる紅衛兵への参加を命じられる
    • 習氏やその友人の多くは若すぎたため参加することができなかった
    • 閉鎖された学校や図書館から借りたり盗んだりした本を読んで過ごした
    • 習氏を含む一部の若者は、マルクスやレーニンを読んでいた (友人談)
  • 1968年には政治状況が悪化し、追放が広がり、紅衛兵は暴徒化した
    • 習氏は、軍事系の家系を中心とする20~30人の若者グループとともに陝西省延安の梁家河村に下放した
    • 習氏の父はこの地で1930年代に共産党支持者の基盤固めに尽力したとして広く名声を集めていた
    • 1年もたつと、習氏のグループの若者の多くが軍に入隊するため村を去った
    • 習氏はこの時期は「非常に孤独」だったと記している
    • 村人との交流を通じて自信を持ち始め、中国の現実を正しく認識するようになった
    • 「老いも若きも毎晩のようにここに集まり、新しいと思うことを何でも語り合った。次第に、地元の党幹部も仕事の話をしに来るようになった」
    • 地元の党幹部の支援を受け、10回目の申請で党員資格を取得した
    • 幹部らはまた、清華大学への入学申請にも力を貸した
    • 清華大学は、自分の政治問題が息子の教育に影響すべきでないとの書簡を習氏の父から受け取った後、同氏の3度目の入学申請を受け入れた
    • 父の友人だった当時の副総理(後に国防部長に就任)の下で働くことを決めた
      • 友人が当時、習氏に動機を尋ねた、「これが自分の得意分野だから」との返事
  • 1982年党の幹部職に返り咲いていた父の支援を受け、 河北省の県の副書記に就任
    • 「当時、多くの人は私の選択を理解しなかった」と書いている
    • 賢明な政治的転身になった
      • 党幹部の掲げる経済発展のスローガンの陰で、軍は急速に力を失いつつあった 
      • 軍で地位を得たのは革命指導者の息子という立場だからだとの批判を免れた
  • 福建省廈門の副市長時代、党幹部の承認を得ずに次期市長候補に名乗りを上げた
    • 党から処分を受けることになった
    • 候補を取り下げ、より僻地にある寧徳の党職に異動することになった
    • すぐにまた出世街道に戻ることができた
    • 福建省長、浙江省党委書記を歴任
    • ビジネス志向の人物として名声を確立する
      • 米国の主要投資家らが損失を出していた発電プロジェクト契約の再交渉で合意に手を貸した
      • 「父親の人柄が習氏に伝わったとしか思えない。二人に共通しているのは、決して相手を困難に陥れるようなまねをしないことだ」
  • 1998~2002年には清華大学の通信教育でマルクス主義理論の修士課程を修めた 
    • 多くの党幹部が企業経営や経済学を学んでいた当時としては珍しい選択だった
    • 自身の政治的思想の正当性をアピールし、「太子党」の誹りを免れる上で都合の良い手段だった
  • 1997年に党中央候補委員に選出された
    • 得票数が最も少なかった
      • 太子党に対する反感があったことも要因の一つ
  • その10年後、次世代指導部のトップを選ぶ党エリートの投票で、習氏は最多得票を獲得した
    • 同じく太子党の曽慶紅・前副主席が、習氏が胡錦濤主席の推す候補者を抑えて出世できるよう画策した影響
    • 地域や思想、職業の違いを越えて人々と交流、協力できる習氏の類いまれな能力の為
    • 「習氏はとてもバランスの取れた人物だ。誰に対しても報復など考えない。彼は大きな視点で物事をとらえ、あらゆる種類の人々と協力することを重視している」
という事らしい。

たたき上げで頼りになる友人も多そう。
また、バックもしっかりしていそう。
なので、政治的に不安定になることはなさそう。

記事
若き日の苦労が培った習近平氏の世界観 WSJ

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